初夏の陽射しが石畳に踊る午後、椿京の商店街は穏やかな賑わいに包まれていた。格子戸から漏れる藍染めの暖簾、軒先に吊るされた風鈴の涼やかな音色、そして行き交う人々の笑い声が、まるで時が止まったような錯覚を覚えさせる。
「普通の夫婦みたいに、一緒にお買い物がしてみたくて」
私の提案に、理玖は一瞬、面食らったような表情を見せた。契約結婚をしてから、二人きりで屋敷の外に出るのはこれが初めてだった。
「普通の、か」
理玖は小さく呟いた。理玖にとって「普通」という言葉は、どこか遠い響きを持っているようで、時々、戸惑うような顔を見せる。
商店街を歩く理玖の姿は、否応なく人々の視線を集めた。濃紺の和装に身を包んだ理玖は、まるで絵画から抜け出してきたような美しさだった。
「朝霞の旦那様と奥方様じゃないか」
「本当におきれいなお二人だねえ」
道行く人々の囁き声が聞こえる度に、私の心は複雑に揺れた。奥方様――本当の妻として見られていることへの嬉しさと、それが本当はまだ偽りであることへの後ろめたさが、胸の奥で絡み合っていた。
呉服屋の前で、私は帯留めを眺めていた。淡い桜色の珊瑚で作られたそれは、陽の光に美しく輝いて見えた。
「そちら、お似合いになりそうですね」
店主の声に、私は微笑んで首を振った。
「いえ、見ているだけで……」
「桜色よりも、若草色の方が鈴凪には良いと思う」
突然の理玖の声に、私は振り返った。彼は別の帯留めを手に取り、私の着物に合わせるように近づけている。
「理玖様?」
「鈴凪の瞳の色に近い。きっと映える」
「鈴凪!」 理玖の声が廃寺に響いた瞬間、銀の鈴の音が一瞬止まった。 理玖は本堂の入り口に立ち、月光を背に受けている。肩から血を流し、衣は戦いで破れ、黒髪は乱れているが、その瞳には私だけを見つめる深い愛情が宿っていた。「理玖様……」 傷ついた理玖の姿に、私の全身から血の気が引いたような気がした。周囲を包んでいた銀の鈴の光が、一瞬だけ和らぐも、すぐに力の波動が再び強くなる。「来ては、だめです……危険です……」 私は後ずさり、理玖を制止しようとした。理玖は躊躇することなく一歩、また一歩と私に近づく。「何が危険だと言うのだ?」 理玖の声は穏やかだった。まるで、いつもの朝霞邸での日常を過ごしているかのような、優しい響きを帯びている。「私にとって危険なのは、鈴凪がいない世界だけだ」「理玖様……」 私の中で覚醒した奇妙な力の感覚に、人としての感情が混じり込んでいく。 理玖はゆっくりと歩を進めた。朧月会の術者たちは理玖を警戒した様子で手に武器を握って構えた。それを長老が手で制する。「待て……今は、そんなことをしている場合ではない」 長老の深刻そうな声の響きに、私の中で不安が大きく湧き上がってきた。 理玖が私に近づくにつれ、銀の鈴の音が激しくなっていく。 リーン、リーン、リーン――!「だめです! 近づかないで!」 私が叫ぶと、廃寺の柱が更に軋み、天井の梁が崩れ落ちそうになっ
鈴凪の掌で、銀の鈴が宙に浮き上がった。 それは重力を無視するかのように、鈴凪の掌の上で回転しながら、これまでにない光を放っている。月光のような銀色の輝きが、廃寺の本堂全体を包み込んだ。「これは……一体……」 長老が後ずさりする。長年妖と戦ってきた彼でも、これほどの力を感じたことはないようだ。鈴凪から発せられる、妖気とは違う、まるで別次元の力が空間を支配しているように感じていた。 鈴凪はゆっくりと立ち上がった。その動作に、先ほどまでの人間らしい不安定さはない。まるで何百年も生きている古い存在のような、静謐な威厳を纏っている。「私は……覚えています」 鈴凪の声が変わっていた。普段の柔らかな響きではなく、どこか遠い昔から響いてくるような、深い音色を帯びている。「遠い昔、この地に生まれた時のことを。人と妖が、まだ共に生きていた時代のことを」「何を……何を言っているんだ……」 術者の一人が震え声で呟く。鈴凪の瞳が彼を見つめると、その術者は立っていることすらできなくなった。 鈴凪の瞳は、もはや人間のそれではなかった。星空のような深い青に、無数の光が瞬いている。それは、椿京の守り神として生まれた『鈴の子』の瞳だった。「私の役目は、この地に生きる全ての存在を守ること。人も、妖も、分け隔てなく」 鈴凪の言葉と共に、宙に浮かぶ鈴の音が響く。 リーン、リーン、リーン――。 その音色は、もはや単なる金属音ではなかった。まるで天界から降り注ぐ音楽のような、神聖で美しい響きを奏でている。 
椿京の郊外、山の中腹にひっそりと佇む廃寺――。 かつては多くの参拝者で賑わっただろうその寺も、今では朽ちた柱と苔むした石段だけが、往時の面影を留めていた。本堂の屋根は所々が崩れ落ち、月光が境内を斑に照らしている。 ここが、朧月会の隠れ家の一つだった。 鈴凪は本堂の奥、畳の上に横たえられていた。封印術の影響で意識を失っていた彼女の頬に、蝋燭の炎がゆらゆらと影を落としている。その手には、銀の鈴がしっかりと握られていた。 術者たちが彼女を囲むように座り、慎吾はその中央で膝をついていた。その表情には、使命を果たした満足感と、なぜか拭えない複雑な想いが混在している。「よくやってくれた」 朧月会の長老格である術者が、慎吾の肩に手を置いた。白髪の老人で、深い皺に刻まれた顔には、長年妖と戦ってきた者の厳しさが宿っている。「これで、あの忌まわしい狐の手から、この娘を救うことができる」「はい……」 慎吾の返事は、どこかぎこちなかった。理玖の涙を流す姿が、まだ心に引っかかっている。「慎吾よ、どうした? 浮かない顔をしているが」 長老の問いかけに、慎吾は慌てて首を振った。「いえ、何でもありません。ただ……」「ただ?」「あの狐は、本当に鈴凪さんを騙していたのでしょうか」 慎吾の言葉に、周囲の術者たちがざわめいた。長老は眉をひそめる。「何を言っているのだ。妖が人間を愛するなど、そんなことがあるはずがない。あれらの行動は全て、人間を食らうための偽りの感情だ」「でも、あの狐は泣いていました。まるで、本当に鈴凪さ
私は奥の間で、膝を抱えて座っていた。 襖の向こうから聞こえてくる戦いの音に、私の心は千々に乱れている。理玖の声、慎吾の叫び声、術が激突する音、そして――華や眷属たちの苦悶の声。「理玖様……」 私の手の中で、銀の鈴が微かに震えていた。不安と恐怖に呼応するかのように、鈴は小さく鳴り続けている。 リン、リン、リン――。 その音色は、いつもの澄んだ響きとは違っていた。まるで泣き声のような、切ない音を奏でている。この奥の間……襖のすぐ向こうでも傷つけられた狐たちの鳴き声が響いている。「私のせいで……私がここにいるせいで、みんなが……」 私の目に涙が滲む。理玖が傷つく声が聞こえるたび、私の胸は締め付けられた。慎吾の怒りに満ちた声が響くたび、罪悪感が心を蝕んでいく。 その時、襖が勢いよく開かれた。「鈴凪さん!」 現れたのは、朧月会の術者の一人だった。以前、古書店で会った椋本だ。息を切らせながら、椋本は私を見つめる。その瞳には、安堵と共に義務感が宿っていた。「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」 私は立ち上がり、椋本から距離を取った。「あなたは……朧月会の方ですね」「ええ、そうです。慎吾さんに頼まれて、あなたを救出に来ました」 椋本が手を差し伸べる。「さあ、一緒に来てください。ここは危険です。あの化け物から、あなたを守らなければ」「化け物……?」
理玖が屋根から庭へと舞い降りた瞬間、夜気が一変した。 彼の足が地面に触れると同時に、封印していた妖力の一部が解放される。空気が震え、庭の木々がざわめき、月すらもその光を翳らせたかのようだった。「これが……狐の妖の力……」 術者の一人が呟く。理玖の周囲に立ち上る蒼い炎のような妖気を見て、朧月会の面々は思わず身を寄せ合った。しかし、彼らの手には封印の術具が握られている。「怯むな! 所詮は化け物だ! 僕たちには、代々受け継がれた封印術がある!」 慎吾が叫び、術者たちを鼓舞する。彼の声に応えるように、術者たちが一斉に札を取り出した。それらの札には、妖を縛る強力な術式が刻まれている。「封印術・金縛りの鎖!」 詠唱と共に、光の鎖が理玖に向かって伸びる。しかし、理玖は表情を変えることなく、片手を軽く振った。蒼い炎が鎖を包み込み、あっという間に術式を焼き尽くす。「そんな……嘘だろう……」 術者の一人が青ざめる。朧月会の封印術は、これまで数多の妖を封じてきた実績がある。それが、こうも簡単に破られるとは。 理玖は静かに歩を進めた。その一歩一歩が、地面に蒼い炎の足跡を残していく。「貴様らが私に何をしようと構わん。だが――」 理玖の瞳が、金色に燃え上がる。「私の家族に害をなそうとするなら、容赦はしない」「家族だって? ふざけるな!」 慎吾が短刀を構えながら前に出る。「鈴凪さんは人間だ! おまえのような化け物の家族なんかじゃない! おまえ
夜闇が椿京を包み込んだその時、朝霞邸を守る結界に最初の亀裂が走った。 空気が震え、庭に咲く椿の花弁が一斉に舞い散る。華は中庭で空を見上げると、長い袖を翻しながら縁側へと足を向けた。華の瞳に宿る紅い光は、迫り来る危険を敏感に察知していた。「奥様を奥の間へ! 急いで!」 華の声が、屋敷に潜む眷属たちに響く。猫又や狸、狐たちが影のように動き、中庭の鈴凪を迎え入れ、奥の間の廊下を走っていた。しかし、彼らが奥の間の襖を開く前に、結界の破砕音が夜気を裂いた。 ばきり、と。まるでガラスが砕けるような音と共に、朝霞邸を包んでいた不可視の守りが崩れ落ちる。「来たか」 理玖の声が、書斎から低く響いた。彼は窓辺に立ち、夜闇に潜む影たちを見つめている。月明かりが彼の琥珀色の瞳を照らし出すと、そこには静かな怒りが宿っていた。 庭の向こうから、足音が近づいてくる。一人、二人、三人——いや、もっとだ。朧月会の術者たちが、息を殺してこの屋敷を包囲していた。 先頭に立つのは、慎吾だった。 慎吾の手には、月光を反射する短刀が握られている。その刃には封印の術式が刻まれており、妖を縛る力を宿していた。慎吾の瞳は決意に燃えているが、その奥には迷いのような影もちらついている。「鈴凪さん……必ず、あの化け物の手から救い出してみせる」 慎吾の呟きが夜風に混じる。彼の後に続く朧月会の術者たちも、それぞれに武器や術具を手にしていた。彼らの顔は皆、正義感に満ちている。自分たちが正しいことをしているのだと、疑いもしていなかった。 華が門前に姿を現したとき、慎吾は一歩前に出た。「玉依華! 鈴凪さんをどこに隠した!」 慎吾の声が夜空に響く。華は袖で口元を隠しながら、静かに微笑んだ。その笑みには、どこか哀れみのような色